[009]「学力」原器を巡る冒険

2016年12月27日

 

学習者の「学力」をどうするか。codolabo内の活動では、この問題が頻繁に掲げられる。例えば公立中学校での学習支援活動、例えば公立小学校での学習支援活動、例えば放課後児童クラブでの学びの時間。どこでも「学力」という言葉が飛び交う。どうやったら目の前の生徒の「学力」を向上できるのか。どう声かけしたらこの児童の活動と「学力」が結びつくのか。遊んでいるように見えて、実は「学力」がつく活動を提供したい。学習者の学習に参与する活動では、「学力」なるものと学習者とを結びつけることが第一義となることが多いのである。

こう言った場合に我々が宣揚する「学力」とは、いったいどういったものなのか。こう問いかけてみても「何を今さら、「学力」は「学力」だよ」と反復されるばかりで、ともすると「気が触れたか」と心配される。もしかしたら気が触れてしまったのかもしれない。だが、本当に「学力」がどういったものか分からないのである。そこで、試みに周囲に聞いて回っても(その頃にはすっかり変人扱い)、ほとんど類語反復に陥ってしまってそれまでである。そのうえ、立場や環境が違えば、語られる「学力」もバラバラである。どれも荒唐無稽なわけでなく、正しくバラバラなのだ。

ここで種々の「学力」について触れたり、まとめあげたりしようとは思っていない。ここで触れておきたかったことは、「学力」という言葉が曖昧なまま歩き回っている現状についてである。そして、この現状についての指摘は、「学力」を確固たる何かに仕立て上げるための前段階的指摘ではない。あくまで、曖昧な状態の「学力」を目撃した者による、収束を志向しない証言に過ぎないのである。ただ、この証言の届く先によっては、「学力」そのものを問い直す行為の契機となるかもしれない。学習者の「学力」をどうするか、このことを考える前に、我々は「学力」を学習者のなかに同定する必要があるのではないだろうか。

 

(タイトルに原器の二文字を付与せずにいられないほどには、「学力」の都合の良い人工物感に嫌気を感じている)

 

久々に「だ・である」体で書いたら,とても意気込んでいる感じになってしまいました。最近,「学力」という言葉が独り歩きしてますよねっていう,ただそれだけのことなんですけれども。


 


学生室長 Takuya Kobayashi