[003]「学校の」先生というシンボル

2016年10月29日

 

先日、一般社団法人Teacher's Lab.さんとのコラボ企画「codolabo meets まなびcafe」が行われた。水道橋の貸会議室を使い、一つのテーマについて3時間弱、民間企業人、現役教師、学生(大半が教員志望)がごちゃまぜになってディスカッションした。

今回のテーマは、「大学出てそのまま先生?」だった。このテーマでディスカッションをすることにしたのは,サークルcodolaboの代表補佐をしている加藤さんである。彼女は学部1年生にして,はやくも「大学を出たらそのまま先生になっていいのか?」という問いに出会った。この問いは,教員志望の学生であれば一度は直面するであろう「あるある」な問いである。しかし,人によって出会うタイミングも,出会い方も違う。彼女の場合は,自身が参加したディスカッションの場で,参加者の一人から問いかけられたそうだ。

「大学を出てすぐに先生になるのか,それとも社会経験を積んでから先生になるのか,そのどちらがいいかを考えるだけの問いにしたくない」,彼女は参加者にたいしてそう語った。なるほど,確かにこの「大学出てそのまま先生?」という問いは,先生になることを前提とすれば,「すぐなる」か「なにか経験してからなるか」の二項対立に収束しがちである。彼女は続けて,「今すぐどちらかの答えを出すような話し合いではなく,それを決めるために大学をどう活用していくかを考えていきたい」と語った。結局どうするのか,その決定をする局面で,自分の意思を最大限反映した選択ができるよう,自分のレディネスをつくりだすということなのだろう。この視点を持つことは,いまの学生に必要なことであり,なかなか難しいことでもあると思った。

会の後半にさしかかったところで,「先生になるとはどういうことか」について考える時間があった。この問いかけに,僕のいたテーブルでは面白い答えがあつまった。「数多ある「先生」と呼ばれる職業のなかで,学校に雇用されている人,になるということ」「職業選択の一つ」こんなにドライな回答が出て来るとは思わなかった。僕自身も「教育学に関するR&Dを,現場でおこなうようになること」という,ドライな回答を準備していたのだが,比べ物にならなかった。一方で,教員志望の学生たちから語られるのは,「子供の人生に関わる」「子供を預かっているという責任がある」「ほかの職業に比べて,責任や使命が重い」といった内容のものであった。そこで僕は,聞かずにいられなくなり,「先生になる云々よりもまず,先生とはどういう存在なのか」という問いを発した。

なぜ,そのような問いを発せずにはいられなかったのか。そこには,僕の,「先生はなぜ世間知らずと言われるのか」とか「先生に社会経験が必要なのはなぜか」という根源的な疑問が背景として存在している。なぜ,「学校の先生」は「ジェネラリストかつスペシャリスト」であることを求められるのか。もちろん,先生を擁護したいわけではなく,純粋に,そういった言説が意味を持つこの世の中の構造に興味があるのである。

先生は専門性をもったスペシャリストであるべきである。各教科の面白さを流暢に語れる必要がある。生徒指導では,児童生徒の実態と社会との接続を意識した高度な指導が求められる。でも,先生は社会のことをよく知らない。先生は会社で働いたことが無いから,世間を知らない。先生なのにあれも,これも,それもわからない。

なぜ,「先生は世間を知らない」と言われるのか。そしておそらく,この言葉には,同時に「先生は世間を知っている必要がある」という言葉が響いている。先生を目指す学生は,この響きを聴き取り,汲み取り,「社会に出てから先生になったほうがいいのかな」と思うようになるのだろう。では,なぜ,「社会に出てから先生になったほうがいい」のだろうか。

僕はいつのまにか,この問いを何度も自分に問い続けていた。学部1年生の発した問いを発端に,「先生は社会に精通しているべきだ」という言説が生成された構造的背景に思いを馳せていた。「社会」とは何なのか。先生にならなければ,会社に勤めれば,その「社会」を知ることができるのか。もうすこしじっくり考えてみる必要がありそうだ。     
 


学生室長 Takuya Kobayashi