[002]自分を知る、自分の「学」を語る。

2016年10月21日

 

先日、サークルの新しい活動が始まった。「codolaboゼミ」と題したこの活動では、先人たちの様々な「知」に触れるべく、読書会のようなことをおこなう。参加する学生は、意欲と知識に偏りのある学生たちだ。「偏りがある」といったのは、馬鹿にするためではなく、むしろ学問を学ぶ学生としてあるべき姿だと賛美するためである。
 学問自体がそもそもトガっている。それぞれの分野が、「隣の奴がやっていないこと」を看板に掲げて群雄割拠している。だから、正統的に学問に参入するためには、まずはトガる必要がある。トガってトガってトガりまくって、自分の所属する学問の深いところに進んでいく。進めば進むほど、トガればトガるほど、どんどん仲間は減り、話のわかる奴が目の前から消えていく。孤独だ、こんなことならもう引き返して学問なんてもの否定してやろう、そんなモヤモヤした気持ちを背負いながら、なおもトガり続けていく。
 そうして深く深く進んでいくと、ボコっと目の前の壁が壊れ、突如として空間が出現する。いままで目の前を掘り進めていた人には、その先に空間があることなんて想像もつかなかったはずである。だから、入ろうか入らないかじっくり考えて、ようやく、恐る恐る目の前に現れた空間の中へ入っていく。すると、眼前に広がったのは賑やかな宴会場。宴会場?こんな深いところに?そう思いながら中心に進んでいくと、卓を囲んで盛り上がっている面々に驚く。なんと、自分の学問を含め、様々な学問の大御所たちがみんなで楽しそうに飲み食いしながら議論を繰り広げているのである。そんな光景を目の当たりにしながら、ふと気づく。「そうか、皆やっていることは違っても、根底にあるものは一緒なんだ」と。実際、大御所が囲っている卓の真ん中には、でかでかと「分かりたい、できるようになりたい」と書かれている。
 学問とは、それぞれがそれぞれにトガりつつも、なんとなく似たような願いや思いを共有しているのではないだろうか。だから、今回の活動でも、自分の「偏り」を最大限に理解したうえで、そこを出発点に様々な違う「偏り」を見て回り、普遍的な要素や個別的な要素を見つけて欲しい(見つけたい)と思っている。
 そのためにもまず、自分を語る。自分のパラダイムを語るところから始める。そんな初回であった。


 


学生室長 Takuya Kobayashi